聖夜の贈り物




『村岡は今のところ店には顔を出してないそうだ。どうやらやっこさん、我々の動きに気づいたらしいな。そこも空振りになるかもしれんが、引き続き張り込み続けてくれ』
 なにか障害でもあるのか、聞き取りにくい無線の向こうでそうがなりたてている課長に
「わかりました」
 と俺は短く答え、さきほどから見上げ続けているアパートの二階の窓へと目を戻した。
「ああくそ、世間じゃクリスマスイブで浮かれてるっていうのに、こんな日にサメさんと狭い車の中でランデブーってのもねぇ」
 助手席でわざとらしく橋本が溜息をつく。
「悪いかよ」
「ま、お互い一緒にすごす相手がいるでもなし、ってね」
 あはは、と笑った橋本の顔は憔悴の色が濃い。きっと俺の人相も悪くなっているのだろう。この三日というもの、ゆっくり休む間もなく村岡という連続強盗犯の元締めと思われる男を追っていた。手足となって動いていたチンピラを二、三人捕らえてはみたものの、村岡へと繋がる糸がない。キャバクラ経営のオモテの顔と、不法滞在の外国人の若者を使っての強盗教唆の裏の顔を彼が持ち合わせているということは、歌舞伎町では知らぬ者がいないといわれるくらいの『常識』であるにもかかわらず、いざ逮捕となるとひとつの証拠も残していないという彼が、三日前にひとつ大きなポカをした。手足に使っていた外国人の若者が金を持ち逃げしようとしたのに激昂し、その男を射殺してしまったのだ。なんでも長年子飼いにしてきた若者で、子供のいない村岡は本気で自分の跡継ぎにしようと養子縁組まで考えていたらしい。村岡らしからぬあまりに衝動的なその振る舞いは、即刻彼に破綻をもたらした。殺人現場に同席していたという村岡の手下と思われる若者から警察に密告電話が入ったのが一昨日のこと、使用された拳銃が一柳組から村岡へ流れたという情報を得たのが昨日、その頃には村岡の姿は事務所からも自宅からも消えていて、新宿署一同血眼になってその行方を追っている最中なのだった。
 俺と橋本が張り込んでいるのは、村岡の三号だか四号だかの韓国人女性のアパートの前だった。ポジショニングは三号か四号でも、村岡がここに現れる確率は実は高いのではないかと俺は踏んでいた。というのも、村岡に殺された若者が、彼を裏切る原因となったのがこの女との『不倫』だったからである。
 三号か四号でも『不倫』というのかは知らないが、若者は彼女と手に手をとって日本を脱出しようとしており、その資金に金を横取りしようとしたらしかった。女は真剣に村岡の影におびえていた。私も絶対に殺されるに違いない、と震える女を、「俺たちが絶対に守るから」となだめすかして、この二日、その部屋の前に留まらせ、俺たちはアパートの前に車を止めて村岡を張り込んでいるのだった。村岡が姿を現す気配はない。次第に女も自分の心配は杞憂に終わるのではないかと思い始めたようで、閉じっぱなしだった部屋のカーテンをときどき開けるようにもなっていた。隣の空き部屋に張り込ませている山辺の話では、女が村岡に連絡をとっている気配も、村岡から連絡があった気配もないとのことだった。が、俺は村岡のあの蛇のような執念深い目を思い出すにつれ、奴がここに必ず現れるような気がしてならないのだった。

「一緒に過ごす人がいないって…お前と一緒にするなよ」
 俺はそう言いながら橋本の頭を小突くと、
「疲れたろ。いいから寝てろ。あとで交代してくれ」
 と目でシートを倒すよう、示しながらそう言った。
「なに言ってるんですか。サメさんこそ寝てくださいよ。もう何時間起きてるんです?」
 身体こわしますよ、と橋本は大仰に目を剥いてみせた。
「大丈夫だよ。体力採用だからな」
「そりゃ自分も一緒です」
「なんだ、『顔で選ばれた』んじゃないのか」
 中学のときにアイドル事務所からスカウトにあったことがある、という話を宴席で彼がちょろっとして以来、俺たちは「顔採用」と橋本を苛めていたのだが――勿論、今の彼にはその当時の「アイドル顔」の面影は少しもない――いつもの調子でそうからかってやると、
「顔で選ばれてりゃ、今日みたいな日にサメさんと二人でデートなんてしてませんよ」
 橋本は憎まれ口を叩きながらも、疲労を誤魔化そうとでもするかのように、ううん、と大きく伸びをした。
「犯罪者にイブはねぇんだよ」
「サンタさんも草葉の陰で泣いてますよね」
 橋本はわけのわからないことを言いながら、また大きく伸びをすると
「ああ、だめだ。眠い。ちょっとコーヒー買ってきます。メシも調達してきますね」
 と助手席のドアを開けかけた。
「おお、頼むわ」
 確かに疲労はピークに達していた。気分転換でもしなければ睡魔に襲われそうだ。俺も車の窓を少し開け、冷たい外気に頬を晒した。
「そうそう、このへんって…」
 橋本が車を降りながら俺のほうを振り返る。
「ん?」
「めちゃめちゃ『ごろちゃん』ちに近くありません?」
 橋本に言われるまでもなく、張り込みをはじめた当初からその思いは俺の頭にあった。が、実際口にされてしまうと、なぜかひどく動揺してしまい、
「そうなのか?」
 と相槌がやたらとわざとらしくなってしまった。が、橋本はそんな俺の様子には気づかぬようで
「ほんとに近所なんじゃないかなあ?ねえ、一回張り込んだことありますもんねえ。コンビニで偶然会っちゃったりして。なーんてね」
 と浮かれながら車を降り、それじゃ、いってきます、と寒そうに背中を丸めてかけ去って行った。頼むな、とその背に声をかけることも忘れ、俺は今、その名がでたばかりの彼のことを――田宮吾郎のことを考え始めた。

『ごろちゃん』――心の中で彼のことをそう呼ぶようになったのは、もちろん高梨の影響だった。高梨に「嫁さん」として紹介されたのが同年代のサラリーマンであったことは、俺を驚かせるには十分すぎるほど十分だったが、それ以上に俺を驚かせたのは、その同年代のサラリーマンである彼に――『ごろちゃん』に、ここまで自分が惹かれてしまっているという自身の心情に対してだった。
『こんにちは』
 にこ、と微笑みながら大きな瞳をまっすぐに俺へと向けてくる田宮氏の顔は、顔立ちが整っているという以上に、なぜか俺を惹きつけてやまないなにかがあるような気がする。
『やめろって』
『馬鹿じゃないか?』
 男にしては色白の頬を羞恥に染めながら、べたべたと人前でも気にせずスキンシップを図ろうとする――本当に高梨は外人か?といえば外人に悪いか――おおらかな愛情表現をやっきになって振り払うその顔を見ながら、俺はつい自分を高梨に投影してしまい、我に返って落ち込んだりもする。
 高梨と田宮の――ごろちゃんとの仲は、同性同士とはいえ、俺から見ても微笑ましく、互いが互いを支えあう、いい関係であるとは思う。そこに俺が入り込む余地などないことなどもちろん俺にもわかっているはずであるのに、田宮氏の――ごろちゃんの姿を見るだけで、俺の胸は変に昂まり、彼の一挙手一投足をついつい目で追ってしまう。彼をどうしたい、という考えを抱いたことなどない。彼となにをしたい、という希望を抱いたこともない。が、彼のあの大きな瞳が俺を映すとき、俺の心に何かしらの期待が生まれるのを抑えることができないのも事実だった。彼は俺には他人に対するよりも心を許しているのではないか――彼にとっての俺は、少しは他と比べて「特別な存在」ではないのか――多分その答えは否、なのだろう。田宮氏は皆に同じような眼差しを向けている。くるくるとよく変わる表情、屈託のない笑顔を惜しみなく万人に晒しているのに違いない。
 ただ一人――高梨の前でだけ見せる顔、というのがきっと彼にはあるのだろう――そんなことをぼんやりと考えていた俺の脳裏に、いつか見た高梨と唇を重ねているときの田宮氏の顔が浮かんでしまった。慌ててそのあまりに色っぽい幻影を振り落とそうと頭を激しく振ったそのとき、コンコン、と窓ガラスを叩く音がした。なんだ、橋本か、早かったな、と思いながら音のした方を見た俺の目に飛び込んできたのは――なんとその『ごろちゃん』だった。

「なななな???」
 驚いたあまり、どもるだけどもってしまいながら、俺は慌てて身体を乗り出し、助手席のドアを開いた。
「こんばんは」
 吐く息が白い。こんな寒さの中だというのに、田宮氏はセーター姿だった。どうやらポットが入っているらしい紙袋を抱えているその頬も耳も寒さに赤く染まっている。
「どどどどど??」
 どうしたんですか、と聞きたいのに俺の心臓も声帯もどうかなってしまったかのように俺の言うことを聞いてくれない。田宮氏は不思議そうな顔をしながらも助手席に乗り込んできて、俺の方を向くとまた
「こんばんは」
 とにっこり笑ってみせた。
「こ、こんばんは」
 一体何がどうなってるんだ?と疑問符が頭の中に溢れるが、何から聞いていいのかわからない。と、田宮氏は
「さっき良平から電話があって…近所にサメちゃんが…あ、すみません。納さんが張り込んでるから、何か差し入れ持ってってやってほしいって…」
 と、ぼそぼそと小さな声で言ったと思うと、
「ほんと、つまらないものなんですが、よかったら…」と紙袋を差し出した。
「さ、差し入れ?」
 俺はもう驚くやら嬉しいやらわけがわからないやらで、差し出された紙袋を受け取り、中を見る。中からおいしそうな匂いが――入院中、一度差し入れてもらったことのある、あの稲荷寿司の匂いが立ち上ってきて、思わず目を閉じ力一杯息を吸い込んでしまったのだったが、その様子を見た田宮氏にくすりと笑われ、俺は一気に我に返った。
「す、すみません…お気遣い頂いてしまって」
「いいえ、だって今日はイブなのに…大変ですよね」
 小首を傾げるような仕草が本当に可愛らしい。茶色がかった大きな瞳に見つめられているうちに俺の胸の鼓動は次第に激しく脈打っていった。
「いえいえ、し、仕事ですから…た、高梨も今日は仕事で?」
 我ながら声が裏返ってしまったが、田宮氏は少しもそれには気付かぬ様子で、
「ええ…」
 とその可愛らしい顔を曇らせると、はあ、と小さく溜息をついた。
「どうしたんです?」
 あまりに切なそうな溜息に、俺の心拍数は更に上がった。
「イブなのに俺…一人ぼっちなんですよね」
 目を伏せながら田宮氏が――いや、ごろちゃんがそう小さな声で言ったとき、俺の血圧は一気に50は跳ね上がった。頬に落ちる長い睫の影が心細そうに揺れている。泣くのか、泣かれたらどうすりゃいいんだ、と激しく動揺しながらも、俺は殆ど耳鳴りさえ聞こえそうな心臓の高鳴りを持て余しながら、そっとごろちゃんの顔を覗き込んだ。
「一人ぼっちって…」
 ああ、なんでこんなに声が震えるんだ、と舌打ちしそうになった俺の目の前で、ごろちゃんは唇を噛んでいる。きゅ、という擬音がそのまま当てはまりそうな――意外に俺は文学青年だったりするのだった。今は忙しくて本など殆ど読めないが――その可愛らしい仕草に、ますます俺の心臓が高鳴ったそのとき、不意にごろちゃんは伏せていた目を上げ、真っ直ぐに俺を見つめてきた。
「……納さん…」
 そしていきなりそのまま俺の胸に顔を埋めてきた彼に、俺は何がなんだかわからない上に心臓も血管もそして――そこ、も破裂しそうなくらいに膨張してきてしまった。
「ご、ごろちゃん…」
 おずおずと名前を呼びかけながら、そっと彼の肩を掴んで顔を上げさせる。ごろちゃんは真っ直ぐに俺を見返したあと、おもむろにその瞼を閉じて顔をあげ――キキキキキス、キスを待ってるのか??? と息と一緒に生唾を飲み込んだその瞬間。

コンコンコンコン

 やかましい硬い音に俺ははっと我に返った。慌てて辺りを見回し――車の中が無人であることに気付く。


 ゆ、夢――???


「サメさーん、寒いって。早くあけてくださいよー」
 助手席の窓を拳でがんがん叩き始めたのは――橋本だった。
「ああ、すまん」
 慌てて身体を乗り出し助手席のドアを開く。恐ろしいほどのデジャビュ。でも車に乗り込んできたのは、
『こんばんは』と白い息を吐き出した彼ではなく、
「なんだ、居眠りこいてたんですか?もう、だから寝てくださいっていったのに」
 あー、寒い寒い寒い、とぶーたれている橋本、だった。
「寝ちゃいないさ」
 言いながらちらと車の時計を見る。橋本が出て行ったときに反射的に見た時間から五分と経っていなかった。
「またまた。はい、コーヒー」
 橋本がそう笑いながら俺に缶コーヒーを渡してくれる。
「どうもな」礼を言いながらも、俺はさっきまで見ていた夢のことを思い返してしまっていた。

『納さん……』

 俺の腕の中にすっぽりと納まったあの細い肩――あわせた胸の温かさ。俺を見上げる大きな瞳――。そっと伏せられた睫の影が頬に落ちて揺れる、あれが、あれが、あれがあれが――


夢――???

「そんな殺生な…」
 思わずぼそりと呟いた俺の顔を
「え?」と橋本が覗き込んできた。
「なんでもねえよ」慌てて俺は渡された缶コーヒーのプルトップを開け、ぐびりと大きく一口飲んだ。
「あちち」
「あーあ。やっぱ寝ぼけてるんじゃないすか?」
 橋本の呆れたような声を横で聞きながら、俺は、自分で自分が情けなくなり、はああ、と思わず大きな溜息をついてしまっていた。

 なんだってあんな夢を見たのか?夢は願望を見る、というけれども、あれは俺の――願望?

『納さん…』

 キスを求めるように閉じられた瞼。薄く開いた唇――。

 願望、かなあ、とはあ、とまた溜息をつきながらコーヒーを飲んだ俺の目の前に、
「メシ、どうぞ」
 と橋本が差し出してくれたのは――コンビニのお稲荷さんだった。
 再びコーヒーにむせ返る俺の背を
「サメさん??」と慌てて橋本がさすってくれる。
「だ、大丈夫」
 呼吸困難に陥りそうになりながら俺はなんとか咳を納めると、自棄のようにコンビニお稲荷を二個いっぺんに頬張ったのだった。



 結局イブ明けてクリスマスの夜に、俺の読みどおりにこのアパートへと忍んで来た村岡を俺たちは逮捕することが出来た。
 あれから田宮氏とはまだ顔を合わせていない。一体どんな顔をして会えばいいんだ、と今から緊張している自分を本当に俺は馬鹿だと思う。


 夢は願望を見るんだろうか。だとしたなら、イブに見たあの夢は、俺への誰かからのプレゼント、ということか――。


 ―――そんなことを考えている俺は、本当に――『馬鹿じゃないか』と言われるに誰より相応しい馬鹿に違いない。



Merry Christmas!












いつもお世話になっているKさまへ